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犬王 影像与音乐.md

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そういう私からすれば、『⽝王』がもたらした感動は久しぶりのものだった。⼤変素晴らしかった。⼼を惹きつけられ、魂が揺さぶられた。それはやはり、この作品には優れた映像と⾳楽の接合があり、エイゼンシュテインの⾔葉を借りれば、素晴らしい吸引⼒を持っているからである。

そのキャリアを振り返って⾒れば、映像と⾳楽の接合は、やはり湯浅の⼀つのテーマだと思う。『ちびまる⼦ちゃんわたしの好きな歌』(⼀九九⼆)で⼿かけた⾳楽シーン「1969年のドラッグレース」は、近年「シティ・ポップ」という呼称で⼀括りにされる⼀九七〇─⼋〇年代の⽇本ポピュラー⾳楽が世界的に再評価される流れの中で、再び注⽬されている。中国でも、湯浅をこの流れの中で評価するアニメファンをよく⾒かける。『夜は短し歩けよ⼄⼥』のミュージカルシーンもまた、アニメファンの中で⼈⼜に膾炙するほどの名場⾯である。『⽝王』を鑑賞した後、この作品は間違いなくそのテーマの⼀つの完成形だと、私は確信した。

琵琶がエレクトリック・ギターやベースのように扱われ、和太⿎がドラムセットの如く叩かれる。河原で⾏われる『腕塚』興⾏は、さながら現代的な野外⾳楽フェスのように演出された。集まる民衆がライブに合わせて、掛け声を発し、⾳楽に合わせてストリートダンスを⾃発的に披露する。興奮して叫び声を上げる⼥性ファンの描写も⽋かせないその⼯夫は、あたかも室町時代に本当に現代のロックミュージックが存在したかのように、リアリティを持たせた。⽇本の伝統的な能楽と現代的なポピュラー⾳楽の接合は、「和洋融合」とでも形容できそうだが、しかし私はむしろその現代的な部分を含めて、「原始的」だと感じている。もちろん、「原始的」という表現は、ポジティブに評価するために使う⾔葉である。『⽝王』の原始性は、例えば次のようなところで現れている。  **まずは視覚⾯において、舞台装置や仕掛けなどの存在を執拗に描いている。**⼀般的にアニメーションでは、ライブシーンもしくはミュージックビデオについて、エフェクト、煙、舞台装置など、舞台裏はどういう原理で動いているのかをあまり描かないのが普通である。しかし、『⽝王』は、最初の『腕塚』ライブでは、ワイヤーで沈み落ちた兵⼠たちの⼿を演出する仕掛けを⽤い、『鯨』ライブでは、原始的な幻灯機を使って鯨の像を幕に投影するなど、画⾯上のあらゆるエフェクトが物語世界の中で、どのように作られていたのかを⾮常に細かく描いている。室町時代に幻灯機はおそらく実在しないが、当時の⼈々たちが⼀⼯夫すれば原始的な幻灯アニメーションも作れてしまいそうなリアリティを持たせることに成功している。  次に⾳声⾯において、様々な⽣活⾳、作業⾳をリズムカルにライブのロックミュージックに挿⼊している。『腕塚』ライブでは、鴨川沿いの⽔⾞を回す作業⾳から船体の⽊削り⾳、⽕吹き芸⼈の吹き⾳や下駄を脱ぎ捨てて地⾯にぶつかる⾳まで、あらゆる物語世界の中で発⽣した⾳が、できるだけロックミュージックに合わさるように作られている。 『鯨』ライブでは、観衆たちが拍⼿し合唱する声を⾳楽に合わせるのはもちろん、鯨の投影に合わせて⽔の炸裂や蒸発⾳を仕掛け、それをリズムカルに編集する⼯夫がされている。観世座藤若の能楽が静かに演出されるのと⽐べてみれば、これらの⽣活⾳、作業⾳などの雑⾳の存在がより際⽴つ。  舞台装置を執拗に描写することや⽣活⾳と作業⾳のリズミカルな挿⼊は、『⽝王』におけるロックミュージックが現代的なライブと⾮常に近い形式を取っていると同時に、⽇常⽣活や仕事の最中に聞く⾳楽であることを意味する。この点においても、観世座との対⽐がまた露⾻に演出されている。わざわざ劇場に赴くことなく、舞台に表と裏の区別もなく、楽⾳と雑⾳の区別もなく、ライブは道端で⾏われ、曲芸や遊戯施設のような仕掛けとも混ざりながら、⼤衆の⽣活の⼀部として⽝王の⾳楽が聞かれていることにやはり注⽬する必要がある。労働の最中に聞く⾳楽として能楽を描いたこの作品は、その⼤衆⽂化としての側⾯を正しく捉えたと⾔えよう。  幻灯機という原始的なアニメーション、そして⽣活⾳と楽⾳を区分しない原始的な視聴環境によって、『⽝王』の原始的なミュージカルシーンが作られた。映画祭で「ロック・オペラ」と称される『⽝王』であるが、本当は劇場で聞くオペラというよりは、室町時代の街頭で演出された「恋するフォーチュンクッキー」MVではないか。

しかし、『⽝王』の吸引⼒は、それだけではない。このことをより明⽩にするために、ここで少しミュージカルアニメーションの歴史を振り返って⾒よう。現代ではアニメーションに⾳がつくことは普通であるが、かつてはそうではなかった。トーキー映画がまだ普及していない⼀九⼆〇年代に、ディズニーはその⾼い録⾳技術をもって『蒸気船ウィリー』(⼀九⼆⼋)を始めとする⼀連のトーキーアニメーションを制作し、アニメーションを巡る世界の受容を⼤きく変化させた。今でこそアニメーションの特質は、視覚表現である作画に偏っているが、ディズニーが牽引した⼀九⼆〇─三〇年代のアニメーション業界では、⾳と⾳楽がアニメーションの独特な⾯⽩みと⾒なされていた。  例えば、⽇本アニメーションの⽗とされる政岡憲三が当時、⽇本の国産アニメーションの不⾜点として挙げたのは、「まず第⼀にアフレコの害毒」で、「アクションの貧困」はあくまで「第⼆」であった。彼は作画よりも⾳声に関⼼を持っていた。同時代のアニメーター中野孝夫は、トーキーアニメーションの⾯⽩みは「画⾯の運動のリズムを⾳楽のリズムとの完全な組み合わせ」にあると述べている。当時のアニメーターたちは、何よりも映像と⾳の接合に関⼼を持っていた。その結晶が、『桃太郎海の神兵』(⼀九四五)のミュージックシーンや『くもとちゅうりっぷ』(⼀九四三)のようなミュージカルアニメーションであった。 アメリカでは、ディズニーの『シリー・シンフォニー』シリーズ(⼀九⼆九─三九)はもちろん、『ファンタジア』(⼀九四〇)のような⼤名作は紹介するまでもない。ディズニーは今でもそのミュージカル的な構造を引き継いている。他には例えばワーナー・ブラザース傘下の『ルーニー・テューンズ』シリーズ(⼀九三〇─六九)があり、このシリーズは最初ディズニーの模倣から始められたが、後にオペラ《セビリアの理髪師》をもとに作られた『セビリアのラビット理髪師』(⼀九五〇)、《ヴァルキューレの騎⾏》などワーグナーのオペラ曲をもとに作られた『オペラ座の狩⼈』(⼀九五七)など、ディズニーすら超える素晴らしいミュージカルアニメーションを作り上げた。  戦後のアメリカでは、ミュージカルの⼿法が⼀般化していたが、⽇本では⽐較的少なかった。しかしこの⼗数年の間、新海誠のようなMV的なアニメーションを始め、近年の『竜とそばかすの姫』、『サイダーのように⾔葉が湧き上がる』、『アイの歌声を聴かせて』そして『⽝王』のような作品の出現によって、ミュージカル的な⼿法が⽇本で再び注⽬を集めるようになったのだ。 しかし、改めてこれらのミュージカルアニメーションの魅⼒を吟味すると、それはクラシカルなオペラ曲を映像化し、アニメーションの動きとシンクロさせたという単純な理由とは到底思えない。というのも、それが⽬標であれば、上演の様⼦を実写で撮影し、ロトスコープすれば完成できる。政岡憲三や中野孝夫がいう「独特な⾯⽩み」は映像と⾳楽が単純にシンクロしているのではなく、キャラクターたちがじゃれ合う姿をいかにオペラの中にリズムカルに組み込むかにある。そのためによく使われた⼿法の⼀つが、効果⾳の楽⾳化である。

例えば次のような処理はアニメーションにはよくあることである。キャラクラーの⾜⾳がピアノの楽⾳になったり、機関⾞の汽笛⾳がフルートの如くリズミカルに発せられたりしている。アニメーションのキャラクターに楽器を持たせて⾳楽を鳴らせるのではなく、キャラクターそれ⾃体が楽器になる。このような処理は、⼀九⼆⼋年の『蒸気船ウィリー』からすでに発⾒できる。⽜の尻尾がゼンマイの⼿巻きのように扱われ、蓄⾳機のように⾳楽が流れてくる。⽇本において、トーキーアニメーションがキャラクターを機械・楽器的に扱う特質を、いち早く⾔語化できたのは、おそらく今村太平である。今村は、⼀九三〇年代から活躍する映像評論家で、⽇本最初のアニメーション理論書『漫画映画 論』(⼀九四⼀)を書き上げた⼈物である。例えば、今村は『シリー・シンフォニー』の⼆作⽬「おそろしい闘⽜⼠」(El Terrible Toreador,1929)を例に、追いかけてくる⽜の進⾏⾳は機関⾞になり、闘⽜⼠の上げる悲鳴が汽笛となっていることを述べ、その機械的な雑⾳が楽⾳に挿⼊されることに漫画映画の魅⼒があると指摘する。また、『シリー・シンフォニー』の五五作⽬「⾳楽の国」(Music Land, 1935)を引き合いに、この作品における露⾻な楽器の擬⼈化を述べつつ、当時「ストラヴィンスキーが楽器演奏者をのぼせ、俳優と同格にしよう」としたのと同じぐらいにこのアニメーションの⾳使いはラディカルだと評価している。 今村の理論によれば、このキャラクターを楽器のように扱う特徴の背後には、ラジオや蓄⾳機の発達によって⾳楽が⽣活の⼀部となるという聴取環境の変化がある。そしてキャラクターを楽器のように扱うことは、楽⾳の優位的な地位が解体され、雑⾳が楽⾳と相互転換できる視聴環境の到来を意味するその変遷は、調の破壊や対位法の分解する現代⾳楽のさらなる推進として捉えられているのである

ここで映画⾳楽研究の視点を導⼊すれば、今村の論の⽴ち位置がより明⽩になる。フランスの映画⾳楽研究者ミシェル・シオン、そして英⽶系の映画⾳楽研究では、「インの⾳、フレーム外の⾳、オフの⾳」の三分法、「物語世界内⾳、物語世界外⾳」の⼆分法など、⾳はナラトロジー上、どこから発⽣しているのか、精密な視聴覚分析を⾏うのが⼀般的であるが、アニメーションはリアリズムに⽴脚しておらず、ディズ ニーのように、そもそも効果⾳と⾳楽が聞き分けられないことが多い。先ほども述べたように、ディズニーでは、しばしばキャラクターの⾜⾳をピアノにし、機関⾞の汽笛⾳をリズムカルに編曲して⾳楽にする。そこでは、視聴者にとって効果⾳と⾳楽の区分が厳密には不可能である。もちろん絵コンテを⾒れば、どれが効果⾳なのかはすぐに分かるが、聴覚という感覚のレベルではそれが不可能である。⾔い換えれば、アニメーションにおける「⾳」というのは、前述した三分法と⼆分法から逸脱し、その分類の枠組⾃体を無効化する。シオンはアニメーションの⾳のこの性質を「⾳像接合」と呼び、それを⼀種の「精神⽣理学」的現象として捉えている。

そして、今村が論じた雑⾳、⽣活⾳と⾳楽の相互転換は、効果⾳と⾳楽の接合という意味において、シオンがいう「⾳像接合」と⾮常に近いものであるが、今村はシオンが論じる数⼗年前にすでに論を展開していたのである。視覚と聴覚、⾔葉と⾳楽、効果⾳と⾳楽、これらの諸感覚の未分化状態を今村はその映像理論の中で、「⾳画」という⾔葉のもとで展開し、⼈間の感覚の原始的状態として位置づけている。

こうして改めて『⽝王』を振り返ってみると、前述したこの作品の⼆つの原始的な側⾯、その真の意味がようやく浮かび上がることになる。『⽝王』はまさしく、アニメーション独特な映像と⾳の扱い⽅、今村太平が⾔う「⾳画」の⼀つの完成形である。前述のように、『⽝王』のライブシーンでは、河原で⽣活や仕事をしている⼈々のカットが挿⼊され、彼らが発する⾳は雑⾳であると同時に、⽝王たちの⾳楽と同じようなリズムで組み込まれ、⼀体化していく。この処理は、⼤衆⽂化としての側⾯があると同時に、アニメーション特有の聴取体験を喚起し、効果⾳と楽⾳が聞き分けられない原始的な感覚体験を観客に追体験させる

今回の『⽝王』の制作は通常とはいささか異なる⼿順で作られ、プレスコを採⽤しておらず、歌の収録も曲作りも後に収録するアフレコ形式を取っている。そのためか、楽器の演奏における指や⾝体の動きは⾳楽と厳密にシンクロしておらず、よく⾒たらギリギリまで調整して、なんとなくシンクロしているように処理しただけである。しかし、⼤半の観客はおそらく気づかないのであろう。私も最初に⾒た時は⾒逃し、注意を払って繰り返し⾒たあと初めて確信したのである。 観客が気付かないのはなぜか、その原因はまさに「⾳画」の効果である。この作品はたしかに歌や曲はアフレコで収録しているが、しかし、⽣活⾳、作業⾳などの効果⾳に関してはおそらく曲の収録後に挿⼊したと推測する編集上、出来上がった曲を調整するのは難しいが、効果⾳のシーンを調整するのは容易い。そのため、今作では効果⾳は基本的に映像とシンクロしているため、効果⾳と⾳楽を同じリズムで組み込むと、効果⾳のシンクロはあたかも⾳楽そのもののシンクロに聞こえるわけである。そこで機能しているのは、まさに効果⾳と⾳楽が聞き分けられないアニメーションの性質である。  その上、今作では効果⾳は⽣活⾳や作業⾳を除き、曲芸や幻灯などの舞台装置から発しているものも多いから、シンクロしている部分に、観客の注意を向かせるよう操作したのも⼀つの原因であろう。そして、おそらくもっと根本的なところに、「⾳画」の効果が発揮されているように思う。それは、そもそもなぜ琵琶や和太⿎で、ロックミュージックの⾳が出せるのかということである。いくら楽器を改造し、仕掛けを設置し、室町時代にロックミュージックが存在するというリアリティを持たせたとしても、琵琶はやはりギターではない、ましてや物語世界に⼀切出現していないシンセサイザー・ミキサーによるスクラッチ⾳(⾦閣寺における『竜中将』ライブでの擦り⾳)は存在する訳がない。そんな疑問を誤魔化せるのは、やはりこの作品がアニメーションだからであり、そして今村が述べたように、⼈⼯的な機械⾳楽(もちろん電⼦⾳楽はその⼀種である)は原始的な⽣活⾳に通底するのがアニメーションのメディア的特徴である。だから、おそらく観客たちには感じられたであろう。⽕種と灯籠だけで幻灯機が成⽴するように、琵琶でギターの⾳が出せるように、このアニメーションの世界では、⾜で床を擦ってみればスクラッチ⾳のような電⼦⾳楽が出来上がる。それが、『⽝王』の魅⼒であり、⼈の⼼を惹きつける吸引⼒の存在である。

当たり前のことであるが、私が述べたような「⾳画」的な特質について、湯浅監督が意識的に作っているかというと、必ずしもそうではない。しかし、湯浅監督が⾳声処理において、ある種の擬似的なリアリティに拘っているのは確かである。それはキャリア初期に⼿掛けたもう⼀つの⾳楽シーン「買い物ブギ」を⾒れば⼀⽬瞭然である。この⾳楽シーンにおいて、⾳楽に出てくる拍⼿⾳に対して、⼿をそのまま何個も描いてしまう。これは⼀⾒想像⼒豊かな処理であるが、実はかなり即物的な発想である。拍⼿⾳があれば、画⾯上に⾳源である⼿がないとおかしい映画⾳楽研究の観点からすれば、湯浅は「インの⾳」に強く拘りを持っているように⾒える。だから湯浅の⾳楽シーンはリップシンクが激しいオペラや⾝体の動きが⼤きいダンスの場⾯が多く、たとえ具体的なものや⼈体の動きがなくても、線で⾳楽の変化をヴィジュアリゼーションする。あたかも線が⾳楽を発しているようなその処理は、リアリズムの視点からすれば想像⼒豊かであるが、本当は即物的なものだった。もちろん、それは湯浅のいいところであるが、時々裏⽬に出ることもある。同じ曲が何度も⼜頭で反復される『きみと、波にのれたら』は⼀番運がなかった場合である。 しかし今回の『⽝王』はおそらく⼀番運が良かった場合である。⽣活⾳や作業⾳の挿⼊も、⼤衆⽂化としての側⾯も、湯浅はきっと⼀切気にせず制作しているだろう。彼は多分今までの作⾵を貫いているだけである。そして、その結果として最⾼の「⾳画」が出来上がったのである。それを天才と呼ぶべきか、天運と呼ぶべきか、私には判断しかねるので、読者の皆さんに委ねるとしよう。