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Webベースウェア、あるいは如何かとも呼ばれるものの個人的な開発動機

「伺か」とは、「ゴースト」の実行環境である。

様々な紆余曲折を経てきた末にそれが整理総括されないままとなった「伺か」では用語の混乱が各所に見受けられる。 現に「伺か」と「ゴースト」の示すものは判然としない。

「ゴースト」は本来"Ghost in the Shell"であるうちのゴースト、すなわち「人格(ゴースト)」と「見た目(シェル)」とを分けたうえでの「人格」のことであったのだが、 現在では「見た目付きの人格」として配布されるパッケージアーカイブであるnar、およびそれで表現されるキャラクターを示す用語に変質している。

「伺か」も同様で、本来はmateria.exe(古くはembryo.exe, sakura.exe)とその周辺コンポーネントからなるただ1つの実行環境を示す用語であった。 しかし現在は実行環境としてはSSPがデファクトスタンダードであり、本来の「伺か」は環境としてはすでに半ば役目を終えている状態である。 そのなかで「伺か」という用語は、その本家「伺か」とSSP等の互換環境、 およびそこで「育った」一連のキャラクターやコミュニティ、また創作表現手法をも総称するジャンル名のようなものとなっている。

「伺か」とは、「ゴースト」の実行環境である。

この「伺か」というものに含まれる仕組みやコミュニティは、全て「ゴースト」を「生かす」ためのものである。 これまでに生み出された膨大なゴーストは、それが「立つ」環境としての伺かがなければそれを表現し得ないただのデータである。

「ゴーストが立つ環境としての伺かがある」ということは、伺かの実行環境がメンテナンスされているということと同義ではない。 実行環境のコピーを持つ人が少なくなれば、伺かゴーストは立てなくなる。

人々の意識から外れた文化は衰退し、消滅してゆく。 伺かがなければ、ゴーストは死んでしまう。

日々生み出され、更新されるゴーストがあれば、それは「立たせる」動機となる。 ゴーストを「立たせる」コミュニティ、実行環境、文化としての伺かが存在する限り、ゴーストは生きてゆく。

しかし実際に、伺かを部分的に知る人々の多数の認識においては「伺かは過去のもの」としてマークされているのが現状である。

伺かは関連するほぼ全ての配布をWebサイトによっているが、それらは本質的にはWeb上ではなくデスクトップでしか広まらない。 これはなにもしなくても連鎖的に広まる志向をもつWeb上のサービスとは違う。 ユーザーが自発的に広めなければ、その広がりも、伺かの変化や発展も、それを知らない大多数にとってはなかったも同然なのだ。

つまるところ、「デスクトップマスコット」というニッチは広める手段に乏しい。

新しい人間が入らない文化は衰退あるのみである。

折しも時はもはや「デスクトップ」自体が存在しない端末の時代であり、 伺かが生まれた当時にあった「主戦場」は、新規の情報端末ユーザに最初から認識されないまま過去のものになる可能性さえはらんでいる。

Webベースウェア、あるいは如何かとも呼ばれるものは、表現媒体としての伺かを文化として存続させるための、その「場」の移植である。

如何かは「ゴースト」をはじめて「デスクトップ」以外の「場」で動作させることに成功しつつある。

如何かが提供する「Web上」という「場」は、端末や環境が変わっても未だ普遍性を保っている。 これは伺かの配布される場と広まる場の構造的断絶をなくし、環境の不運によってゴーストが死んでしまう事態を回避し延命する。

これまでにもこれに自覚的か無自覚的か、伺かのようなものをWeb移植する試みは存在した。

しかし「こんな感じのものがある。興味があればデスクトップにインストールしてみよ。」ではもはや意味を成さない。 デスクトップはすでに無い。仕組みが変われば対応できないゴーストはたやすく死んでしまう。 「本物」をそのまま立たせることのみが、ゴーストを延命する。

この点で、別の仕組みに立脚したものは、結局ゴーストを生かさない。もはや「伺か」ではないそれ以外の何かである。 守るべきは「伺か」の見た目の環境ではなく、その表現、文化、その中核にある「ゴースト」である。 残るのは技術ではなく、コンテンツである。

Webベースウェアは、遺志を継いで開花した優れた創作表現を、ここで孤独死させないための試みである。